骨董豆知識

群馬の古墳群と埴輪を紹介

当社は群馬県高崎市・前橋市に3店舗のお店を展開しております。
2月頃からでしょうか、吉永小百合さんが出演しているJR東日本「大人の休日倶楽部」のテレビコマーシャルで群馬県の古墳群である「大室古墳群」「保渡田古墳群」などが紹介され、コロナウイルス拡大前は、休日ともなれば多くの人が詰めかけていました。

元々群馬県は全体で13,000基を超える古墳が造られた「古墳大国」でした。「群馬」という県名の由来も古墳時代に遡るほどです。
日照時間が長く地震などの天変地異も少ない地としてとても環境が良く、首都候補の1つとして群馬県も上がるほどでした。(諸説色々あるようですが…)
そんな良い環境でもある群馬県には有力な豪族も居たことが証明されています。


史跡 保渡田古墳群

国の史跡として指定されている保渡田古墳群は、5世紀後半に二子山(ふたごやま)古墳、八幡塚(はちまんづか)古墳、薬師塚(やくしづか)古墳の順に作られた前方後円墳群で、いずれも墳丘の長さが100m級の大型古墳です。

八幡塚古墳

八幡塚古墳は、長年の発掘調査の結果をもとに築造時の姿に復元されています。この古墳には、たくさんの埴輪が並べられていたことが、発掘調査でわかっており、円筒埴輪だけでも6,000本と推定されるそうです。復元された埴輪が並んでいるので、子供達が悠久の昔の歴史を知るきっかけに最適な場所です。

斜面を葺石(ふきいし)で飾られた八幡塚古墳

二子山古墳

保渡田古墳群で最初に造られた二子山古墳は墳丘長108mの前方後円墳で、まわりに内堀と外堀を巡らせています。外堀まで含めた総長は213mあり、墓域の面積は約3万㎡と広大です。

榛名山麓の井野川流域を統治した豪族の墓といわれる二子山古墳

そもそも埴輪とは?

埴輪(はにわ)とは、日本の古墳時代に焼かれた素焼の製品です。
古墳に配置された円筒埴輪は、墳丘や重要な区画を囲い込むというその樹立方法からして、聖域として場所を区割するという意味を持っていたとされています。

全国で国宝・重要文化財に指定されている埴輪は59件。そのうち22件が群馬県出土の埴輪です。単体の埴輪では唯一国宝に指定されている「埴輪 武装男子立像」も太田市飯塚町から出土されています。

埴輪のルーツは壺形の土器だった

埴輪の起源を調べてみると、弥生時代の終わり頃に墳墓に使われた壺形土器とそれを乗せる器台形土器にたどりつきます。
壺形土器はその底部に穴が開けられることで非実用品となり、器台形土器は円柱形に大きく作られるようになり、双方とも埴輪の原型となっていくのです。

また、3世紀頃には器台形埴輪や円筒埴輪などのシンプルな物でしたが、4世紀頃になると家形の埴輪や、盾形の器財埴輪、鶏の形をした形象埴輪等も登場してきます。

八幡塚古墳の復元された円筒埴輪。古墳を囲むように配置されています。

多種多様の埴輪が登場!!

八幡塚古墳の想定復元された形象埴輪(人物や動物、道具類を象った埴輪)
それぞれの埴輪が役割を持ち配置されたと考えられています。

5世紀になると人物埴輪や、馬や犬などの動物埴輪も出現し、6世紀頃になると武人埴輪や変わった形の猿埴輪も登場してきます。武人埴輪は、東京国立博物館に所蔵されているのでご存じの方も多いかと思います。
簡単な時代の見方として、器や筒など無機物を象っていた埴輪だけだったのが、年数を経過するごとに人や動物などの埴輪が出現すると思って頂ければ分かり易いかも知れませんね。

埴輪と土偶の違いは?

土を材料として素焼きで作られているという点では、埴輪も土偶も一緒なのですが、第1に作られ時代が違うということ。土偶は縄文時代なので1万年以上前、埴輪は古墳時代なので約1600年前です。また、前述しましたが、埴輪は古墳の回りに並べられ、魔除けや王の威厳を示したもの、一方土偶は人々の安産祈願や子孫繁栄など祈りや願いのために作られたものです。
群馬県内でも東吾妻町郷原から出土されたハート形土偶が重要文化財に指定されています。また、土偶の紹介もしたいと思います。

今回も簡単な説明だけだったので分かりにくい点があるかも知れませんが、楽しんで頂けたでしょうか?
今は外出自粛の毎日ですが、ここはあまりネガティブにならずブログを読んで思いを巡らせて見てください。事態が収束したら吉永小百合さんの撮影場所をめぐる群馬の古墳散策を楽しんでみてはいかがでしょうか?

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