「日本のゴッホ」山下清 ホントはどんな画家?
山下清は、関東大震災の前年1922年に東京浅草で生まれ1971年に49歳で亡くなっています。マジックペンで書いた素朴な絵や、色紙の貼り絵が有名です。
1937年、15歳の時「特異児童作品展」に出品した絵を安井曾太郎や梅原龍三郎などの巨匠が絶賛し、「日本のゴッホ」と称されました。本人の山下清はピカソとゴッホ以外の画家は知らなかったそうですから「日本のゴッホ」と呼ばれてうれしかったでしょうか?それとも「僕は僕だよ」と思ったのでしょうか?
「放浪の旅」の始まりは?
彼は小さい頃から集団のいじめに遭いトラウマになっていたようです。兵役に行くと罵倒されたり殴られたりの毎日になると恐れ、放浪の旅へと逃げ出しました。イジメさえ無ければりっぱな兵隊さんになったと思います。
書籍や映画、TVなどで「放浪の天才画家」と謳われているように全国を巡っています。甥の山下浩さんの語るところによるとエピソードの半分位しか合っていないということです。私たちは報道されている山下清像しか知らないことになります。実像を知りたければ浩さんが発行した「家族が語る山下清」を読まれるといいでしょう。
生活を共にした浩さんは叔父の彼がユーモアのセンスも有り、記憶力が抜群に良かったこと、絵は記憶通りではなくアレンジを加えていたこと、他人の自分を見る目に敏感だったこと、吃音を気にしていたこと、おしゃれさんだったことなどを語っています。又、質問魔でとことん聞きたがるので周囲の人をウンザリさせやすかったこと、マスコミの作り上げたイメージではなく、きちんと自分を理解して欲しいと思っていたことなどをあげています。
私が残念に思ったのは、彼の絵が売れ始めると、今まで好きで取り組んでいた絵の世界を、
「これからは、どんなに苦しいことがあっても、がまんして描いて行きたいと思っている」
と述べたことです。≪「芸術新潮」1955年9月号「初めて絵を売る」)記載≫ 好きで楽しんで描いていた絵を我慢して作品にするなんて悲しすぎませんか?山下清は生きていくためにはお金を稼がなければならないと自覚していました。どこかの親のすねかじりと違い立派です!
有名な山下語録『裸の大将放浪記』より
「みんなが爆弾なんかつくらないで、きれいな花火ばかりつくっていたら、きっと戦争なんて起きなかったンだな。」
確かにそうですよね。世界中の大人が共感してくれたらと思います。
私も以前に見た「反戦ポスター」が深く印象に残っています。それは隊列を組む兵隊が構える銃の筒先に花を差し込む子供のイラストです。ヨーロッパのデザイナーの作品だったと思います。平和を望む人々の心は万国共通ですね。
山下清に会いに行ってみませんか?
放浪美術館 山下清
〒391-0001 長野県茅野市茅野2764−3
http://houro.net/
古い町並み美術館
〒506-0841 岐阜県高山市下三之町1−19
http://www.furuimachinami.com/
月夜野 上牧温泉 辰巳館
〒379-1303 群馬県利根郡みなかみ町上牧2052
https://www.tatsumikan.com/
長期滞在して数々の作品製作に励んだ宿です。『はにわ風呂』のタイル絵は紅葉風景の貼り絵が特殊ガラスで再現され見応えがあります。お風呂に浸かりながらホッコリとリラックス出来ます。[山下清ギャラリー]も併設されていて、火山口(浅間山かも)から天空へ真っ赤な龍を噴き出している作品などがあり面白いです。
骨董舎の山下清作品
骨董舎にも原画で「かたつむり」、「トンボ」、「蝶々」の色紙絵3点が飾られています。つい童謡を口ずさみたくなるような可愛い絵です。
ついでに運が良ければ骨董舎のお留守番も見られますよ。お待ちしていますね。
ところで昔、昭和の何年だったか記憶にありませんが高崎市の中央公民館だったような気がします。山下清さんの個展が開かれ本人もいらっしゃってお会いしたことがあります。
作品を買うとマジックペンでサインをしていました。小さかった私も花火の絵が気に入って(ハガキでしたが)一枚買ってもらって列に並び彼のいるテーブルまで進みました。世話役の男性がお客さんの応対や山下清さんに指示を出すなど忙しそうでした。山下清さんはお客さんを見ることもなく黙々と出される作品だけを見て、一文字一文字をていねいにサインしていました。私は「大人しい人だなー」と感想を持ったのを覚えています。
*** #骨董舎のお留守番と山下清さんのクロスオーバーでした。以上、報告終わり!***